日本ではスーツのことを背広と言うが、その語源については諸説があってはっきりしない。けれども最も有力なのは、明治維新を経てロンドンに日本大使館が設営され、そこに赴いた外交官たちがロンドンの仕立街・サヴィルロウでスーツを仕立て、サヅイルロウが背広に転注していったというものだ。なるほど、慶庖義塾初代塾長となった古川節蔵が1870年に出した『絵人智慧の環』を開けば、そこに「せびろ」が登場している。それまではスーツのことはなぜか「まんてる」などと呼ばれ、福沢諭吉が1867年に著わした『西洋事情』を見るとビジネスコートと紹介されている。ちなみに福沢は1872年、慶庖義塾出版局内に衣服仕立局なる部門を設け、そこで洋装の製造を展開させていった。サヅイルロウでは1787年からスーツづくりが本格的にはじまった。1828年になると軍服の仕立でその名を轟かせていたヘンリー・プールがオーバーリントンに移転し、サヴィルロウが活況を呈する基礎となる。なぜなら、オーバーリントンの襄側かサヴィルロウなのだ。ヘンリー・プールはオーバーリントン側をアトリエに、サヴィルロウ側にあった馬小屋を改装して店舗とした。やがてその店鋪を目当てに人々が集うようになり、サヴィルロウは人気エリアとなっていった。ヘンリー・プールはナポレオンー世の軍服も仕立てている。ヘンリー・プールと並ぶサヴィルロウの老舗にハンツマンがあるが、こちらは乗馬川ズボンの仕立から歴史がはじまっていて、創業はカールーマルクスが英国に亡命し、チャールズーディケンズが『デイヴィッド・コパフィールド』を発表したのと同じ1849年のことだ。ロンドンは1666年以降、男性服飾史において中心的な役割を担ってきた。この年の10月7日、川上チャールズ2世は「衣服改竹宣言」を発令し、コスチュームの面から宮廷改革に乗り出した。1665年はペストが猛威をふるい、ロンドンで少なくとも6万5000人が死亡したとされる。しかも1666年9月、イーストチープに端を発した火事が燃え広がり、ロンドン全土を炎で包んだ。セントポール大聖堂、ギルドホール、ブラックフライヤーズ……市壁に囲まれた中世都市は灰燈に帰してしまった。そうした悲劇を乗り越えるために、チャールズ2世は衣服から心機一転する戦略を選択したのだ。
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